資料を読みながら書くということをしているが、困るのはわたしのカメレオンのような言語特性である。どこかに行くとすぐ土地のイントネーションがうつる。大江健三郎を読むと、たちまち掃除の段取りすら関係代名詞(〜であるところの)を多用して考えている。
そのため、「読んでいる文章」の文体が「書いている文章」にうつってしまうのである。
前半では「どのようなものだろうか」と書いているのに、中盤では「いかなるものであったか」などとやたらに時代がかっている。東映のやくざ映画を見て、肩をいからして歩くにいちゃんのようである。