東京brary日乗

旧はてなダイアリー「東京brary日乗」から移行しました。2019/2/28

我々はどこからきたのか

金曜日の朝、ドアを開けると空気は初秋を迎えていた。
夕刻の北の丸にもそろそろ秋の気配がしていて、彼岸までもうひと月もない。週末は夜間も開いている国立近代美術館にゆき、ゴーギャン展をみる。近美では十数年前にもゴーギャン展があった。忘れられない展覧会のひとつで、ゴーギャンの構図の力に開眼した。以来、そのとき買ったポスターをずっと飾っている(ポスターの出来もすばらしい)。


今回の展覧会は大作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》が目玉で、総作品数は多くない。最近の美術展がすべてそうであるように、テーマに沿った構成と解題を工夫して、《我々は》に向かって、ゴーギャンにおけるタヒチがパリ画壇=西洋文明との対比で提示されている。

みながら、セザンヌのことと、ゴーギャン荷風なのかということについて考えた。なぜセザンヌのことを考えたのか自分でわからなかったが、カタログに掲載された長い解題を立ち読みして解決した。セザンヌゴーギャンを嫌って、おこっていた。セザンヌが賭金としていたもの(絵の考え)をゴーギャンが持ってタヒチに行ったので、おこっていた。ゴーギャンが悪事をはたらいたわけではないが、セザンヌはフランスでそれをしたのに、ゴーギャンタヒチでするからずるいのだった。


ゴーギャンタヒチから帰ってきて、パリでタヒチが人気がないので絶望してまたタヒチに帰る。妻がいるが、タヒチで愛人もたくさんつくる。女ばかり描いている。荷風のようだが、そうなのかどうかはわからない。
《我々は》の前には、ちょうど絵の中にいるのと同じぐらいの人数の人がいた。どこからか来て、これから別々のところに帰ってゆくが、いま絵の前で同じ視点にある。絵の隅には死に向かう老婆が描かれているが、絵の前にひとりだけ小さなおばあさんがいて、その部分をみつめている。そればかりでなく、絵の中と見ている人の構成がほぼ同じである。
横に立って、絵と見ている人の両方をしばらくみた。


『マンガとミュージアムが出会うとき』(臨川書店)をよむ。